戦後カミソリ史記 第二話 日本のカミソリ素材(帯鋼)
カミソリ倶楽部 代表 竹内 康起 寄稿
日頃、使用している髭そり用のカミソリ素材である帯鋼については意外にも日本の名刀と世界のカミソリとの関連が出て来る。余り知られていない事実だが、名刀正宗などの由来を見ると、その材料である玉鋼は島根県山陰地方特産の真砂砂鉄を用い、日本古来の製鉄技術である“たたら製法”から出来た純度の高いその刃物鋼から当時の刀匠は熟練した技術で名刀造って来た。砂鉄そのものはこの地域の花崗岩に含まれ、その1%が真砂砂鉄である。採鉱方法も昔は川に沈殿した砂鉄を人間がザルを用い掬い上げていた。それを比重選鉱方式と呼び、この格好がいつしか安来節の“どじょう掬いになったらしい。本来は土壌から採る砂鉄なのに話によると江戸の芸人が聞き間違えてそうなったようだ。現在では磁石を使い機械による磁気選鉱方式を採用している。こうして古式豊かな“たたら製法での玉鋼”は今では異なった製造方法の下でカミソリ用の素材(帯鋼)として量産化されている。不純物の少ない真砂砂鉄を“安来法”によって精錬した面鉄をさらに高度な製鋼技術で生産した高級鋼、これがYSSヤスキハガネと言われ、カミソリ用素材(帯鋼)でもある。
日立金属(株)島根県安来、花崗岩に含む真砂砂鉄
筆者、1985年4月23日
https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/index.htm
たたらの話
時は経ち、今日の高度消費社会になりカミソリの需要が伸びるにつれ帯鋼の消費量もどんどん増大して行った、因みに地球上で一年間に使用されるカミソリ用の鋼だけでも約二万トンと言われている。中でも米国のジレット、シック、ASR社を始めインドのマルホトラ社、英国のウィルキンソン社などのカミソリメーカーが多くを使用している。欧米諸国はじめ先進国ほどカミソリの消費が伸びていることも明らかだ。かつての名刀の素材が今ではカミソリ用の刃に代用され、日本の刃物鋼が世界のカミソリメーカーにも認められ、現在では日立ヤスキハガネの供給量は世界のカミソリメーカーへの出荷量全体のおよそ65%を占有している。続いて、スウェーデンのサンドビック社、英国のブリテイシュスチール社などがあるがその格差は縮む様子もない。日本で産まれた鋼材が世界へも輸出され、そしては完成品(シック、ジレットなど)として再上陸し多くの日本人が愛用している。戦後、自動車、家電など国産品が外国品を凌駕している中でウエットカミソリだけはアメリカ製品に圧倒され、市場占有率も60%を有に超えている。この実態こそ、わが国の貿易構造上に於いても稀に見る特例と言えよう!
日本のヤスキハガネが何故そんなに普及したのか直接その関係者に訊いたことがある。答えは、確かな均質と安定した供給であり、さらにサービス面でもより優れていることが勝因らしい。その日立金属も過去(1960年代)に岐阜県関市に在るカミソリ製造業者に依頼しサンブレードという商品名で替刃を売り出したことがあったが、結果的には手を引いた。素材メーカーとしての想定外の問題が出て来たからだ。その後、改めて素材メーカーとして再出発し米国に支店を設けた頃からジレット社との取引が始まった。当時を顧る滝谷健二氏(元日立金属(株)副社長)の尽力は後の現在に至ってはカミソリ材のためのヤスキハガネから精巧な半導体の部品として多くを使われるまでに品質を向上させて来ている。カミソリの刃から派生した高級特殊鋼の需要は高度情報社会になりますます用途を広げ、今日のM&Aなどによる世界的規模拡大を模索する鉄鋼業界の渦中で、ニッチな市場に絞り込み年月を費やし自社の存在性と優位性を構築してきた日立金属(株)の企業戦略に対峙できるメーカーも無い。それが今日の実態だ。
1960年代から1970年代にかけては日本経済の復興期でもあった。その間、小売業に於いては百貨店の三越から量販店のダイエーに売り上げ規模で覇権を譲り以後、流通革新とともに消費形態も大きく変化した。一方、この頃、日本の輸出にもドライブがかかり自動車や家電業界など多くの企業が海外市場へ向かい外貨獲得に走った。戦後の母国を救う日本の野武士(さむらい魂)が一丸となり経済大国となる基礎を固めた。日立金属も決して例外ではなかった。1963年12月に若干37才の社員が当時の中村隆一社長の陣頭指揮の下でボストン近郊に在るカミソリメーカー最大手のジレット社への売り込み訪問を開始した。その後も深い信頼関係を保ち最高の素材開発に励んだ。これを契機に素材メーカーとしての本領を発揮し1971年4月にはシック社との取引も進め以後、英国のウィルキンソン社、米国のASR社、インドのマルホトラ社など世界的カミソリメーカーへ次々にカミソリ材(帯鋼)を直納することに至った。36才で単身渡米し支店をも増設し米国滞在期間11年間での功績は目覚ましいものがあった。1974年6月21日帰国する際には現地法人の従業員を含め700名に別れを惜しんだ。これぞ男のロマンであり同時に感動のドラマと言える。今日ある貿易立国日本の一端を築いた立役者とも言えるだろう。氏との会話の中ではいつも”これは良質な素材のお陰であり自分だけでなし得た成功物語ではないです”ときっぱり言う。東大卒で入社しフルブライト第二期生の経歴をもつ生粋の日立金属マンである。この滝谷健二氏とは筆者自身も30年以上のお付き合いがあり氏から多くのことを学んだ。光栄の限りである。
ところで、カミソリの刃の製造方法については各メーカーもそれほど大きく変わることはないが、それでも帯鋼からの製造工程において(型抜き、焼き入れ、焼き戻し、刃付け、コーティング)、など厳密には素材ごとの材質はじめ製法などについては各社ごとに異なる。それが持ち味であり特許権にもなっている。年代別に実例を幾つか挙げるならば、1956年のステンレス材替刃、1961年の刃先への皮膜処理、1974年の三層上によるセラミック皮膜処理、いずれも英国ウィルキンソン社より、そして1972年からの二枚刃、1986年肌への潤滑剤付着(ルブラスツリップ)などは米国ジレット社からの製品だ。1994年ガード付カミソリの初売はわが国のフェザー社からで、翌年には切れてなーい!の広告でお馴染みのプロテクターが米国シック社から発売された。また、最近の10年間では、三枚刃、四枚刃、五枚刃が次々に売り出され国産の貝印、米国のシック、ジレットがその先陣を斬っている。その間、二枚刃から五枚刃までは僅か35年もの短い期間だった。当然ながら、商品にも付加価値が付きますます高級多機能的になり安全性も高まって来たが、同時に価格も何倍にも上昇している。従って、開発費も一枚刃や二枚刃時代とは比較にならないほど驚異的な投資額に成って来ている。こうした流れはメーカーの戦略的通過点であり、伴に業績向上へ反映させている。
終わりに、カミソリ素材について長年担当しこの分野で大変活躍しその上、カミソリメーカーの間ではミスターカミソリのニックネームで呼ばれて来た本多義弘氏は帯鋼の製造技術に於ける優秀なエキスパートである。氏の存在によって又、艱難辛苦によって今日の世界市場占有率65%までにYSS日立ヤスキハガネを世に広めて来たその功績は大きい。さらに2000年には本社の社長に昇任し、そして2006年の会長になるまでの6年間の激動の渦中で残してきた業績についても多くの株主からも賞賛されるに違いない。側に完成品としてのカミソリがここに在る。それを見て手に取りそして使用した時みんな何を感じるだろうか?!このカミソリの価値をどう評価するだろうか?実は、素材メーカーの人たちも亦カミソリメーカーで働く人たちもみんながそれぞれ技術革新に向かって真剣に取り組んでいる、その姿を数多く見てきた。まさに、良材が良品を産む信頼から生まれる連携の構図になっている。そして、“いいものには国境がない”と、1960年代のカミソリ自由化時代に実父、金蔵が口癖にしていたあの言葉の意味合いと重みが脳裏に浮かんで来る。偶然にもその間、US$ドルの360円から115円まで驚異的円高が進行したが、これはカミソリ市場を今日ある国際化へと一段と促進させた大きな要因にもなったことに違いないと思っている。
2000年7月21日
日立金属(株) 本社社長室にて、中央:本多義弘社長(当時)左:筆者、右:竹内 教起(カミソリ倶楽部)
凡そ15年ぶりに島根県の米子空港に近い日立金属安来工場を訪れた。近辺には夕陽の素晴らしい穴道湖や松江城跡地も在り少し離れたところ には縁結びの神様として有名な出雲大社などがある。30年来ビジネスでのお付き合いもあり同社の前社長、そして現会長の本多義弘氏のご厚 意に甘え、今回は息子の世代を中心にカミソリや刃物の素材である帯鋼など高級ヤスキハガネの一貫した生産過程を見て知る機会になった。特にカミソリの替刃分野ではジレット始めシック、ウィルキンソン、ASR社など海外のカミソリメーカーの他に国産のフェザーや貝印などを含め帯鋼の供給率もイギリスのBS社スウェーデンのSB社をはるかに超え世界市場の70%に達している。工場内の陳列ケース を見ると既に三枚刃、四枚刃、五枚刃が主力となるカミソリが多く展示され、時代の変遷を実感できた。15年前来た時には世界中が二枚刃時代を享受していたからである。話は変わり会社の生い立ちについては1956年に日立製作所から分離独立し、以後1967年には社名を現在 の日立金属株式会社に変更した。工場は全国に六ヶ所散在しているがこの特殊鋼カンパニー、安来工場は規模も大きく海岸工場や山手工場など合わせて約28万坪の敷地を誇っている。以前、山手工場にあった木造建物の本館も現在は海岸工場の敷地内に移転し近代的建物に変わっていた。一方、山手工場の敷地内の高台の一画には鉄鋼の総祖神でもある金 屋子神社が建立されている。眼下には工場棟が幾つもが並んでいるのが見える。そして、たたら製鉄方法から生まれた玉鋼と古き名刀など和鋼の世界と歴史を物語る“和鋼博物館”が近くに在る。館長の八十雄 (やそむねお)氏は工学博士でもあり地元の日立金属安来工場で技術士として活躍されていた。そして、或る有識者が“鉄は国家なり、鉄は産 業の米だ”と新聞紙上で強調していた言葉が僕の脳裏に浮かぶ。我が国 では自動車や建造物など大量に使用する粗鋼生産量は年間で約1億2千 万トン以上にもなるが、昨今のカミソリ材や情報機器に組み込まれる高 品質材など特殊鋼についての生産重量は比較するまでもなく低い。
2008年10月7日
日立金属(株)島根県安来工場訪問
カミソリ材など帯鋼製造を見学する。
中央は竹内康起、左隣り村山工場長